月刊木村:清須市で営む塾での日々

相伝学舎という塾を経営しています。好奇心の格差時代に、大学受験を通じた成功体験の場を提供することが使命です。

歴史を学んだら、やるべきことが見つかった(前編) - 鳥居強右衛門の話

2014年7月に新卒から6年勤めたトレンドマイクロ株式会社を退職してから、約半年間、NEETの時期を過ごしていました。起業すべく辞めたものの、当初プランしていた内容はどうもしっくりこなくて、やっぱやーめた、となっていたのです。世の中の多くの起業家は「○○をやるぞ!」といって勢いよく会社を始めているのだと思いますが、私はこの時期に宙ぶらりんでした。

最初は起業に関する本を読んでみたり、三田紀房氏のマンガを読んでみたりしていたのですが、「これじゃー何も決まらん!」と思って、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉から、歴史について勉強してみようと考えるに至ったのが2014年の8月です。退職は7月ですが5月から有休消化していましたからここまでに2ヶ月を要しました。

昔の「戦い方」について学べば、どういうときに勝って、どういうときに負けるのかが分かるだろうと考え、歴史のなかでも室町〜安土桃山の戦国時代を勉強してみると決めました。起業に対する恐怖感が先行していたからですね。失敗したくない、そういう気持ちでした。それからすぐ愛知県図書館に行って関係する本とDVDを貸し出し上限まで借りて読みあさりました。歴史の分野であれば、その解釈がここ10年で大きく変わるようなことは考えにくいので、図書館で十分ですね。ビジネスや科学のように、最先端の情報が必要な場合は本屋へGoとなります。

中学校で学ぶ歴史は、超がつくほどつまらないのですが、大人になってから学ぶ歴史というのは超がつくほど面白いですね。とくに、愛知県に住んでいると、家康は岡崎、秀吉・信長は現在の名古屋市の出身ですからすごく身近な存在に思えますし、長篠、桶狭間、小牧など有名な合戦のあった場所も多く、あそこで400年前にドンパチやってたんだなと楽しむことも出来ます。

信長、秀吉、家康を中心にどのように戦国時代が江戸時代へと収斂していくのかという視点で歴史を学んでいたのですが、そこで一つの衝撃的な事件を知りました。それは、長篠・設楽原の戦いで、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という侍がとった行動です。

鳥居強右衛門の話

長篠の戦いとは、武田勝頼が長野県のほうから家康の陣地である愛知県の長篠城を攻めた戦いで、教科書的には家康の応援をした信長が設楽原で鉄砲を3段がまえして圧勝したという話が有名です(本当に3段だったかは諸説あります)。天正3年で、今から440年前の話です。

長篠城には奥平さんという殿様がいてしばらく籠城していたんですが、いよいよコメもなくなりそうでやばいっていうときに「この城から抜け出して家康に状況を伝えてくれる人いる?」という話になったそうです。当時、奥平氏500に対して武田勝頼は3万という勢力だったそうですから、当然長篠城の周りは敵だらけで、超ハイリスクな仕事です。一番最初に指名された奥平一族の勝吉は「抜け出してすぐに城が落ちたら、あいつだけ逃げ出したのだと言われる。それは恥だ」と言って断りました。その他の武士も、誰もやろうとせずに、いっそ切腹してしまおうかという話にもなったところ、挙手したのが当時36歳の強右衛門でした。

 

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強右衛門の作戦

地図から分かるとおり、長篠城の両サイドには川が流れていて、強右衛門はお城の不浄口と呼ばれる下水口からこの川に飛び込んで、作戦を開始しました。前述の通り、武田軍の見張りがいっぱいいて、川の中にも草むらにも鳴子のような奥平ホイホイがしかけられていたそうですから、強右衛門はかなり神経をつかったと思います。彼は、幼少期からこの土地で過ごしていて泳ぎも得意だったそうです。

4キロ泳いだ後、仲間と約束したとおり近くのかんぼう山にのぼって狼煙(のろし)を上げて、「とりあえず見つからずに抜け出せたぞ」というメッセージを伝えます。このとき、長篠城は大変盛り上がったことでしょう。籠城していた武士たちが感じた喜びはどんなものだったか、想像するだけで興奮してきます。

強右衛門、岡崎に到着

さて、その後強右衛門は長篠城から岡崎城までの山道50キロを一晩で走ります。岡崎城についた強右衛門は奥平さんの親戚経由で家康に取り次いでもらって、長篠城に援軍をよこして欲しいと伝えます。ラッキーなことにそのときの岡崎城には、援軍でかけつけた信長も一緒に居て「お疲れ様、いまちょうど援軍に行くところだった」ということを聞きます。さらに「疲れたろうから休んで行きなさい」と言われたのですが、男・強右衛門は「いや、はやく仲間にこのことを知らせたいから、長篠城に帰ります」といって、すぐに来た道を引き返しました。

5月14日の夜に出て、15日に岡崎城について、また夜通し走って16日朝にはかんぼう山に到着して、再び狼煙を上げます。この狼煙は「援軍来るってよ!」の合図で、長篠城内は再び超盛り上がりました。強右衛門は、狼煙だけじゃなくて仲間に再会して伝えたい、そして一緒に戦いたいと考え、長篠城に戻ろうとしました。しかし、武田軍に見つかってしまって、合い言葉をかけられましたがこたえられずに捕まってしまいました。

強右衛門流 交渉術

捕まった強右衛門が「たわけ!もう援軍が来るんだよ!バーカ!」と言ったかは知りませんが、武田軍は強右衛門をすぐには殺さずに、「助けて欲しかったら長篠城に向けて『援軍は来ない』と言え」と交渉をしかけてきました。

そこで強右衛門は「・・・わかった」と言って、お城の門まで連れられていきます。長篠城内では「強右衛門が捕まってるぞ!!」とざわついて、塀の内側から強右衛門の姿を見守っていました。

そこで強右衛門は「援軍が・・・来る!もう少し辛抱しろ!」と叫んだものですから、両脇を抱えていた敵は大変驚いたと思います。

強右衛門からしてみれば、自分の命よりも仲間にメッセージを伝えることのほうが重要だったということです。2日間走りまくって任務遂行して、城に戻ろうと思ったら捕まっちゃったけど面白い交渉が来て、いよいよメッセージを伝えられる!と思いながら一歩一歩長篠城に近づいたときの心境を想像するだけで泣けてきます・・・。相当、嬉しかったと思います。残念ながら、その日のうちに強右衛門は長篠城の向こう岸で磔(はりつけ)にされて亡くなってしまいますが、そのことによって弔い合戦として、その後の長篠城をめぐる戦いに大いに影響したことは言うまでも無いでしょう。私にとって長篠・設楽原の戦いといえば強右衛門なので、その後の鉄砲vs騎馬隊は省略します。

木村、長篠城へ実際に行く

 この話を読んだ翌日、私は新城市にある長篠城を訪ねました。名古屋市内からは車で2〜3時間の距離にあります。長篠城はかなり良いですね。400年前の空気を感じることができました。いかに鳥居強右衛門に感動したかを館主に伝えたところ、「この建物がちょうど、敵に連れられた強右衛門を仲間が見たところだよ」といって建物の裏手を案内してくださいました。木の隙間から見える道路のところに、440年前に強右衛門が立っていました。

 

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その後、道路の側にいって、長篠城を見ました。↓こちらが強右衛門アングルです。この距離から分かるとおり、本当に目の前なので強右衛門は仲間の表情を見ながら、援軍が来ることを伝えられたのです。

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最後に、ここでしか買えないお宝資料を買って帰りました。初代館長がまとめた本で、強右衛門に関するあらゆることが掲載されています。長篠城に行ったらmust buyです。

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その他の史跡

ちなみにこの日は、長篠城を見学した後、強右衛門が磔にされた場所に行って拝み、強右衛門の墓と言われる場所2カ所を訪問しました。新昌寺といってすぐ近くにあります。立派なお墓がありました。もう一カ所は甘泉寺という場所で、車で40分くらいの距離にありますがこちらが埋葬された首塚だそうです。実際に位牌がおかれているのもこちらのお寺です。

住職に話を伺ったところ、甘泉寺は家康に関係するお寺で、家康がここに葬るように指示したようです。ここには強右衛門とその奥様が眠っておられます。ちなみに、辞世の句は「吾が君の 命にかわる玉の緒を 何にいといけん もののふの道」とされていますが、これは後世になって作られたもので、実際に強右衛門が詠んだわけではありません。

さて、この話から考えたことは「一体この時代の人たちは何に突き動かされて偉業を成し遂げたの?強右衛門のメンタルはどうなってたの?」ということで、これを考えたら自分がすべきことが分かりました。

どう分かったのかは、次の記事にまとめます。↓

歴史を学んだら、やるべきことが見つかった(中編) - 強右衛門から導いた私の取り組むべき課題

 

■おすすめ図書

DVD付 戦国ビジュアルシリーズ 長篠の合戦 (双葉社スーパームック)

この本は鉄砲vs騎馬隊の合戦CGがリアルで良かったです。

信長と秀吉と家康 (PHP文庫)

いわゆる三英傑の基本的なところをおさえるには、読みやすくて良いですね。