月刊木村:清須市で営む塾での日々

相伝学舎という塾を経営しています。好奇心の格差時代に、大学受験を通じた成功体験の場を提供することが使命です。

自分で考えるようになるには、それなりの環境が必要

昨日まで、管理教育への批判と内職を通じた自主的な学習の推奨を書きましたが、実際に自主的に学習を進めていける生徒というのは、ある性質を持っています。いや逆に、管理教育への依存から抜け出せない生徒が、その性質を持っていないと言ったほうがいいかもしれません。それは自我です。自我とはなんでしょうか。新選国語辞典(小学館)によれば、

①自己。自分。
②宇宙間の一切の他のものから区別したものとしての自己。
③各個人の、自分自信についての意識・観念。また、意識をつかさどるとみなされるもの。

とあります。一見、「誰でも持っているものじゃないの?」と思える書き方ですが、その通り誰でも持っています。しかし、全員がそれを認識しているわけではありません。つまり、自我を認識して自分とは何かを理解している人もいれば、そうでない人もいるということです。フロイトの概念を借りれば、誰でも無意識で自我を持っているがそれを意識で認識しているわけではないと言えるでしょうか。

自我が育っていれば、人から与えられる課題や強制されることに対して多かれ少なかれ嫌悪感を抱くはずです。与えられる課題や宿題というのは自分の貴重な時間を奪う行為だからです。課題や宿題というのは教師の価値観ですが、教師の価値観に高校生の3年間を捧げる、つまり自分の人生ではなくそれは教師の人生です。自分が何者であるか、そして何をしたいのかを明確に認識していれば、それを得るために何を選択するのかは自分の責任であることを認識出来ます。だから、不要であると自分が判断したものは周りの友人皆がやっている行動でも、「やらない」選択が出来るのです。

幼少期の環境に左右される

では自我というのはどのようにして獲得するのでしょうか。これは現時点での私の予想ですが、小学校までに育った環境に依存すると考えています。一番大きいのは両親の存在、そして兄弟祖父母といった同居家族、ついで友人関係の順番でしょう。この環境で、自分の好きなことを見つけられるかどうかが中学生以降の行動を大きく左右します。

カラクリとしてはこうです。マズローに言及するまでもなく、幼少期は興味関心が自分に向けられることに飢えています。ここで、家庭環境において十分な興味関心が向けられていない場合、子供は興味関心を得るための行動にエネルギーを注いでいきます。たとえば泣く、いたずらをする、などです。これらの行為で無事に親の興味関心を獲得できれば安心感を得ることができますが、得られないと延々とこの行為を続けてしまうことになります。

小中学生になってくるとそのための行動というのは、たとえば万引きをしたり非行行為に走ったりということもありえるでしょう。私の中学時代を思い返しても、そういう行為をする人というのはその人自身に問題があるのではなく、その人の環境が構造的に問題を作り上げているケースであったように思います。もう一つの行為としては、「親の顔色を見る」ようにして優等生になろうとすることです。勉強が楽しくて取り組んでいるのか、親の喜ぶ顔をみたくて取り組んでいるのか、前者も後者も行動自体は一緒ですが、目的が全く異なります。

当然、親に喜ばれたくて勉強を頑張る生徒というのは、それによってどんなに良い成績をとったとしても自我は育ちません。その行為自体が親の関心を得るための行為だからです。

親の興味を満たすか、自分の興味を満たすか

前述の通り、自我が育つのは家庭環境において十分な興味関心が得られているケースです。このケースでは親の関心を引くという行為は必要ありませんから、外の世界に興味関心を持つようになります。ここが決定的な違いです。環境が満たされていれば、自分の興味を見たそうとするのに対し、環境が満たされない場合は親の興味を満たそうとするのです。大げさに聞こえるかもしれませんが、自分の価値観で生きるのか、他人の価値観で生きるのかという違いと言えます。教師の宿題をやるのか、自分で選んだ参考書をやるのかと似ていると思いませんか?

ほっといても色々なものに興味を持ち出しますが、その行動を増幅するのはやはり親でしょう。楽器や音楽であふれている家では子供は音楽に興味を持ち、アウトドアが好きな家では子供は自然のなかに興味を持つ確率が高くなる。たとえば今でしょの林修先生は幼少期に本に囲まれていて、本からどんどん世界を広げていったようです。たしか、本ならいくらでも買ってもらえるとか、そんな話を何かで聞いたことがあります。

興味を持ったもののなかで、さらに興味をかき立てるものもあれば飽きてしまうものもあるでしょう。その取捨選択のなかで、自分が好きなものは何か嫌いなものは何かを認識していって、なぜ自分はそれが好きなのかを考えるなかで自分がどういう人間なのかを認識していく、そして自我が形成されていきます。このように、考える力や判断力を獲得していきますから、大学受験をするにせよしないにせよ、高校生くらいになってくると少しずつ巣立ちのために自分から行動をし始めるというわけです。

決めつけや無関心ではなく

この過程で親は適度な距離感が求められます。とくに「出来るはずが無い」といって興味を消去したり、「これが向いているはず」といって自分の価値観を強制したりするのではなく、どんなことでも適度に応援して上手くいってもいかなくてもいい、というくらいの感覚で接している方が良いようです。

ビリギャルの本でおもしろかったのは本人が頑張ったことより、母親の娘に対する距離感です。たとえば高3のときに1年分の学費百数十万円を前納したにもかかわらず、途中で本人が「もう無理、やめたい」と言ったそうですがそのときなんと母親は「もうやめればいいんじゃない。そんなにつらいんだったら、さやちゃん、もうやめようよ。でも、ここまでよく頑張ったね!」と言ったそうです(文庫本より)。父は会社経営されていたそうですが慶應なんていけるはずもないと学費は一切ださず、母が貯金を切り崩していろんな所からようやくかき集めたという学費を払った塾をやめたいと言ったにもかかわらず(当然返金など無いでしょう)、この距離感でいられるというのは本当にすごいなと感動しました。この母親の教育があったからこそ、ビリギャル本人は愛されている実感を持つことができ、その環境によって自我を獲得できた。高2で受験勉強を始めた当初、学力こそ低かったものの誰にも依存しない意思決定ができるという高度な判断力そして実行力を持ち、そこに坪田先生との出会いという幸運にも恵まれ、偉業を成し遂げることができたのでしょう。

明日に続きます。

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