月刊木村:清須市で営む塾での日々

相伝学舎という塾を経営しています。好奇心の格差時代に、大学受験を通じた成功体験の場を提供することが使命です。

ボランティアより商売でしょ 2

ボランティアは無償がゆえに「やります」「どうぞどうぞ」で簡単に成立します。一方で商売は有償であるから、売り手は市場で求められているサービスを考え提供しなければならないし買い手はそれが価値のあるものかを見極めなければならず、簡単には成立しません。

ボランティアは災害時など困っている人がいてお金がどうとか言っていられない状況においては効果があると思います。ただ、困っているけれどもお金はあるという人にたいしてボランティアをすることは意味が無いどころか商売の妨げになるし(極端にいえば貧困国にバンバン食糧を送りまくったら腹は肥えるが現地の飲食店は困る)、そもそも困っていない人にボランティアすることは時間の浪費です。

実際のところ、ボランティア自体に有用性を感じて本当に自発的にボランティア活動をする中学生はいなくて、多かれ少なかれ高校受験のための飾りとしか考えていないのでしょう。

受験に合格するための手段として実行するものがボランティアであり、それを評価する大人たちがどう判断しているかはさておき、少なくとも実行している中学生たちが割り切ってやっていることは合理的です。

ただ、見せかけのものだとしても実行しているうちに、自分が提供できる価値が労働しかないのだと思い込んでしまうことは問題です。資本主義経済において個人が提供できるのは労働だけではありません。

たとえばいま手元に第4回愛知県全県模試のチラシがあるんですが、全県模試を立ち上げた人が提供しているのは情報です。県内の中学3年生たちと比較して自分の学力がどの程度なのかを受験者は確かめることができます。一方で、同じ全県模試を提供している人であっても採点担当の人が売っているのは労働です。全県模試を運営している会社が、答案一つにつき〇〇円とか、採点業務1時間につき〇〇円とかで買っている労働です。

学校の近くのゴミを拾うことは「いいことをした」という気持ちを得られるボランティアです。学校の近くの銀杏を拾ってバザーで売るという行動は労働です。「銀杏拾いイベント」として地域のヒマそうな老人たちの家にチラシを配りまくって一緒に銀杏を拾えば、参加費1000円50人の集客で5万円の商売になり、毎日近所の喫茶店のモーニングでヒマつぶしするだけだった人にちょっとした刺激を提供できます。

モノを拾うという点では同じ行為ですが、どういう枠組みでやるかによって意味が変わってきます。私がこういうことをまじめに考え出したのは大学時代くらいからでしたが、もっと早くてもいいと思うんですよね。

清須市の大学受験 相伝学舎
http://www.sodeng.jp