月刊木村:清須市で営む塾での日々

相伝学舎という塾を経営しています。好奇心の格差時代に、大学受験を通じた成功体験の場を提供することが使命です。

お肉食べていいの?植物ならいいの?

ペットを飼うというのはどう考えたらいいのか最近ずっと考えていました。アポについていえば、私には「くさいうるさい」と思われていましたが、妻には大変愛されて過ごしてので幸せだったのかもしれません。一方で、実際には私たちが留守のあいだ一日中ずっとケージで寝ることしかできないことを不幸だと感じていたのかもしれません。もちろん感情などなくなんとも思っていなかったのかもしれません。

犬は飼い主を選べないので、裕福な家で高級なペットフードと何十万円でも医療費を払えるお財布に恵まれている犬もいれば、そうでない犬もいることでしょう。販売用にこの世に生まれたのに、売れることなく死んでしまう犬もいるはずです。

これらは全て人間がペットを飼うということをしなければ問題になりません。そもそも愛玩動物という存在がなければ、幸せなペットも不幸なペットも生まれないからです。であれば、可愛いペットを飼いたいという欲望が諸悪の根源といえるのか?でもこれも違うと思います。 だって、可愛い犬を飼いたいという欲望がダメなら、美味しい牛肉が食べたいといって食用の牛を育てることも同じですよね。スーパーにはすべて切り身になって売られているのでそういう生き物の死を感じることはありませんが、人間が食べるために育てられてよく育ったら出荷されて、屠畜されて、スーパーに陳列されて、売れるものは人間のお腹に収まって売れなかったら廃棄されてしまう。

これは魚であっても同じことで、それが養殖だろうと天然だろうと人間の都合で生殺与奪している点で変わり有りません。だからといってベジタリアンになるのも、動物だからNGで植物ならOK?意味がわかりません。どちらも生殖して生命をつないでいることには変わりないじゃないかという反論にはどう答えるのでしょうか。

という話をある生徒としていたら「結局、線引きができない問題だから誰にも口を出すべきではないのではないか」と言っていました。その通りだと私は思いました。

もちろん全ての問題は、「個人によって異なる」と言ってしまえば終わってしまう数学でいえば数式にゼロをかけたらすべてゼロになってしまうようなところがあるので、安易に「個人の問題」と片付けずに、他人に文句は言わない一方で自分の価値観は持っておくということが大事だと思います。

普通の人間は、確固たる意思を持っておかないと「個人の問題だ」と思っていても、誰でもない他人の価値観で判断しがちだからです。「木村はやらされる勉強に価値はないというけれど、誰がどう勉強しようが関係ないじゃないか」と言われればそれまでですが、大量の宿題に忙殺された3年間を自らの意思で選択したのだと言える卒業生は果たしてそのうちの何割いることか、多いか少ないかで言えば少ないのではないかと予想しています。個人の問題だからこそ、自分の人生を獲得するために明確な価値観を持つべきです。

私の結論は3点、食べるものに関していえば動物だろうが植物だろうが売られているものはありがたく食べる、ペットについていえば絶対に飼わない、生きている間は何かに貢献しつづける、です。

詳細を述べると押しつけがましくなってしまうので省略しますが、何にせよ自分は生きているだけで多大な迷惑を誰かにかけてしまうので、そのぶん何かの(誰かの)役にたつことをし続けないと、死ぬ瞬間に自分のことを許せないのではないかと思います。

それが結論です。