月刊木村:清須市で営む塾での日々

相伝学舎という塾を経営しています。好奇心の格差時代に、大学受験を通じた成功体験の場を提供することが使命です。

吉村家に学ぶサービス精神

先日訪問した吉村家ですが、たぶん一店舗での売上はラーメン業界でもダントツトップだろうというくらい、売れてます。いついっても行列です。昨年末、吉村家でラーメンを食べながら思いました。このお店のサービスに対するスタンスとはどういうものなのだろうか、ということをです。

一流のサービスを提供するには、提供する側にサービスに対する強いこだわりが必要なのは言うまでもありません。しかし、サービスにたいするこだわりが強いと、顧客満足度とはほど遠い世界(つまりただの自己満足)に昇天しかねません。ここの案配が難しいところだと思います。では、吉村家ではどうだったかというと、サービスの受け取り方にかなり自由度があります。たとえば、ラーメンにトッピングするためのニンニクやゴマが卓上に並べられているし「味の濃い薄いありましたら後からでも調節できますのでおっしゃってください」と言っています。ラーメン自体にこだわりがあっても、それをどう味付けするかは客側に選択権があります。あれだけ美味しいラーメンを作っていたら「このラーメンはこう食え!」というこだわりがあってもなんら不思議はありませんが、そこはあえて客に任せているわけです。

話は変わりますが、宗教というのは宗教そのものに意味があるのではなく、その宗教からどういう意味を受け取るのかの信者側がひたすら意味を生み出しているものだと私は思っています。神がいるとかいないとかの真実はどうでも良くて、神がいると信じている人にとって世界がどう見えるか、ということです。どれだけ水素水にツッコミどころがあったとしても、それが良いと思っていてそれから幸せを享受している人を前にしたら言えることはないのです。

これは宗教に限らず世の中のこと一般にたいしても言えます。リンゴが木から落ちる瞬間を見て、ある人には「リンゴが木から落ちた」と見えるでしょうし、別の人には「リンゴが地球から引っ張られた」とみえるかもしれません。万有引力で説明される原理がどうであれ、ある人がどう見るかによってその人から見た世界は説明されるのだから、場合によっては「リンゴが地球に抱きついた」とかでもいいのです。それがその人の世界だから。

とすると、ラーメンについても大切なのは万人に受ける普遍的に美味しいラーメンがあるということではなくて、食べた人から見て美味しいラーメンがあるかどうかと考えられます。ラーメンに強いこだわりがあったとしても、それをどう受け取るかは作り手が強制するものではなく、食べる側が選ぶことです。とすると、食べる側に自由度を与えるというのは極めて合理的だなあと、

「めっちゃうまいなあ?」と妻に話しかけながら考えていたのでした。 


清須市の大学受験 相伝学舎
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