高1の数学の授業をするときに「一年前の授業でどう教えたっけ?」と気になることがたまにありまして、そういうときには高2の生徒にノートを借りて思い出すんですが、いつも借りる生徒はK君に決めています。
理由は、ノートがきれい。ノートの綺麗さとは文字と思うかもしれませんが、文字よりレイアウトです。いつも授業中に「でかくかけ」とひたすら連呼しているんですが、小さくなる生徒が少なくありません。
文字が小さいノートは一見キレイに見えますが、そういうキレイさと勉強におけるキレイさって別ものだと思うんですよ。
これいつも生徒に「大きく書くべき」という理由を言うのに「俺がそう教わってうまくいったから、そうやればよいのだ」くらいしか説明がなかったんですが、最近やっと理由が分かってきました。
まず、図や文字は大きく書くときのほうがノート上にキレイに情報を整理しやすいです。図・グラフを書くときに明らかです。グラフなんかはB5ノートの1/2、下手したらB5ノート1ページ分つかってもいいくらいです。
次に、後で見返したときに図や文字が大きいほうがノート上の情報を頭のなかに入力するスピードが速いです。
それで最後。「ノートは大きく書け」と言われて、素直に大きく書く生徒というのはたいてい数学が得意です。それはノートを大きくかくから得意になるのか、得意な生徒がたまたま素直なのかわかりませんが、少なくとも相関関係にあります。
で、私がノートをよく借りるK君ですが、前に面談したときに数学は塾で教わった次の日には再度問題をとく習慣にしていると言っていました。
ノートを大きく書くことも、教わってすぐ自分で解くことも、別に難しいことではありません。いきなり東大の問題を目の前に出されて「解け」と言われているわけではないのです。学力の高い生徒でなければできないことではありません。
しかし、実際こういう普通のことを普通に継続するというのは案外難しいようです。
K君は塾で問題を解かせても、学校で模試をといても良い結果を出すんですが、他の生徒達が「アイツは頭がいいから」とか思っていないか、心配です。
優秀な同級生をみて、アイツは別格と思うのは自分がそれ以上に努力することから逃げることと同じです。同じ人間なのだから今まで自分がサボっていた分を埋め合わせてそれ以上に勉強すれば追いつけるはずだと思わないと、いつまでたっても差は埋まりません。それどころか、どんどん離されてしまいます。
大学受験とは学力による選別と皆さん思うでしょう?
違うんです。実際には考え方による選別です。考え方の差が学力の差になり、その結果として答案用紙の差が現れてくるんです。
学力というのは表面的なものです。
(このノートの美しさをみて、大変優秀なK君にあやかるように)