大学で地学関連の勉強をしていると、地球の運動を科学的に説明することを「解く」とか「決定する」と表現しています。地学に限らず、数学や物理化学といった自然科学全般に言えることですが、ある現象にたいしてただ一つの正しい説明を追求するのが自然科学共通の姿勢です。だからこそある問題を「解く」とか「決定する」という表現がされるのだと思います。
一方で人が直面する現実の世界というのは、自然科学と違って唯一の解があるわけではありません。例えば高校生が受験する大学を選ぶとき、自分のやりたい仕事から考える人もいれば、住みたい場所(東京や大阪など)から選ぶ人もいるし、なんとなくで選ぶ人もいます。このうちのどれかが正しくて、その他が全て誤りということはありません。強いて言えばどれも正しいです。
小中高と勉強し続けている若い人にとってはどちらかというと「解が一つだけある」価値観のほうが慣れ親しみがあるので、ひょっとしたら「自分が選んだものが解である」という世界のほうが奇妙に思えるかもしれません。しかし実際には解が無数にあることのほうが普通です。
中高生くらいの若い人のなかには「勉強やって何の意味があるんだろう」という疑問を持つ人もいるかもしれませんが、これは解が一つだけある価値観らしい発想です。「意味がある」という表現は、「いいことがある」とか「なんらかのリターンがある」という損得の価値観が含まれており、損得というのは「得するほどよい」という絶対的な価値観です。
自然科学と違って人の人生には客観的な解はなくて自分にとっての解だけがあるという考えからすると、勉強をすることでどういう意味があるかどうかは他人にたずねるものでも客観的に与えられるものでもなく、自分にとって意味があればあるし、なければないというただそれだけのものです。
「勉強やって何のいみがあるんだろう」という疑問は「マラソンしている人は何が楽しくてやっているんだろう」という疑問と一緒で、そんなものはやっている本人にしか意味はわからないのです。意味が分かる人どうしがあつまると「マラソンっていいよね」という解を共有することで楽しみを共有できますが、「排気ガスまみれの道路を走って健康を害するだけだし、ただ苦しいだけじゃん」と思う人とは共有できません。
何かに対して「意味あるのかな?」という疑問を持ってしまったときには、損か得かという価値観に侵食されているときです。
「プレートの沈み込みの開始の問題は、まだ解けていないといってよく・・・」