塾をやり始めた頃は「格差をなくしたい!」的な思いを持っていました。
教育での格差といえばなんでしょう?たとえば、東京にいて中学受験から大学受験まで毎月二桁万円課金し続ける人が恵まれていて、地方で塾も予備校もなくすべて公立で勉強する人が不幸とか?
まあそういう文脈で理解されることが多いと思います。
2024年現在の私は、格差をどうしたいとかいう思いは1mmもありません。のわりにblogタイトルに「好奇心の格差時代に〜」とか書いていますが、これはblogを開設したときに書いて、直すのもめんどくさくてそのままにしているだけです。
格差ってなんでしょうか?
↑の文脈でもそうですが、格差を語るときに、格差をなくしたいと思っている側は無意識的に「自分はこれまで格差の恵まれたほうで暮らしてきたから、恵まれていないほうを助けたい」と思っています。マウントというやつです。
これは教育を十分に受けることが良いことで、そうでないことが悪いことという二元論に基づいています。
でも実際には、教育に関しての二元論は成り立っていないと私は思います。恵まれている-恵まれていない、という二つの状態(あるいはその中間の状態)があるのではなく、教育にどの程度価値を見いだすのかの濃淡があるだけです。
何に価値を感じるかは人によって異なります。教育に毎月10万円かける価値があると思う人もいれば、10万円で毎月家族旅行にいったほうが良いと思う人もいます。この優先度に上下関係がない以上、「格差をなくしたい」とかいう思いはただのおせっかいでしかありません。
放送禁止用語を連発している、昼間っからたこ焼き屋で酒を飲んでいる反社のような人をみると私は嫌悪感や恐怖を感じますが、逆にそういう人から見たら私なんてヒョロヒョロガリガリでインテリぶった気持ち悪いやつ、と思われるかもしれません。
お互いに理解不能な環境にいる場合、無理して交わる必要はありません。
教育も同様で、私なんかは塾をやっていますので教育に価値があると思う人に興味をもってもらうことを考えることが肝要なのだと思います。