教えるという仕事をやっているので、日々生徒になんらかの形で「こうしたらいいよ」という助言をするのですが、その通りにやってくれる生徒と「わかりました」といいながらも今までのやり方を変えない生徒がいます。
私は英語がわからない、数学が分からないという生徒の気持ち(というか分からない点)の大部分は分かっているつもりですが、やり方を変えない生徒の気持ちは実は全く分かりません。
勉強にかぎらず、人に何かを教えてもらう場合には、その人の助言に従うのが当たり前だと思っているからです。
しかし、「わからないことがわかった」と哲学的なことを言ってみても話が進まないので、なぜ変えないのだろうかという原因を考えることになります。
そこで最近考えたのが、やり方を変えない生徒にとって、やり方を変えるということは「過去の自分を否定すること」だと感じているのではないかということです。塾に来る生徒というのは、まあそれなりの進学校である場合が多く、言い換えれば中学時代は勉強が出来るほうだったわけです。
高校になって塾にいって、今までうまくいっていた自分のやり方と違うことを教えられた、でも今まではうまくいっていたのだから変えたくない、今までの自分が間違いなはずがない。
と、意識してか無意識でかわかりませんが、感じているのではないでしょうか。
数年前「ありの〜ままの〜」という曲をあらゆるところで聞いていたことが影響しているかどうかは分かりませんが、変なところで自分を肯定するのはやめましょう。「ありのままで」ダメだったのだから変化をしていく必要があるのです。
というか、ありのままの自分を未来永劫に認めてあげるためには、今の自分を否定しなければいけません。
なぜなら、人間は「飽き」という性質を持っているからです。今の自分を認めて変化を拒み続ければ、必ず現状に飽きがきます。飽きというのは不満といっても良いかもしれません。そうすると現状に満足するのではなく、納得することになる。納得というのは満足とは似て異なるものです。
また、あなたが変化を拒んでいる一方で、変化をつづけていく人が必ず存在することも考慮しなければいけません。頑張ったものが勝つという社会において、現状維持というのは維持ではなくて停滞です。
だから、未来の自分を認めてあげるためには、現状から少しでもレベルアップするために変化をしなければならない。言い換えれば、未来の自分を肯定するために今の自分を否定しなければいけません。
「じゃあ、いつ満足すんの?結局、未来がきてもその時も自分を否定しなきゃいけないんでしょ?」
と思うかもしれません。それはその通りです。一度そのレールにのったら、死ぬまで自分を否定し続けることになります。でも、それでいいんです。山を登っている途中で少し振り返ってみたら「ずいぶん景色がきれいになったな」と思いながら、また先を目指すではありませんか。その時に少し満足できるし、なにより山を登っている一歩一歩から大きい満足を得られるのです。
そう考えれば歩んでいくその一歩一歩は何ら自分を否定するものではないと気づくでしょう!
31年しか生きていないクセにまた偉そうなことを書いてしまいました。開き直って宗教でも始めようかな?