すごいことを思いつきました。
物理では、物体が動く方向はその物体にかかる外力のベクトル和として表現できます。たとえばここにある小球があるとして、よく出てくるのは重力ですね。
物体に重力だけが外力としてかかると、進む方向は重力と同じ方向です。
ここで、小球にバネをつけてみ自然長から伸ばしてみます。すると小球が進みたがる方向は斜め右下になります。
さらに、ここが電場であり小球がプラスで、右上のほうにマイナスの電荷が存在するとすれば、こうなります。
つまり、物体が進もうとする方向というのは色々な外力の和であるということです。
これを人間に置き換えると、こうです。
ある高校生について考えます。まずその高校生がとる行動は学校の先生に言われたこと、というのがありえるでしょう。
さらに、親の存在があればこんな風に影響されます。
信頼できる友人や尊敬できる友人がいれば、また少し行動が変わるでしょう。
物理の小球の行く先が、外力のベクトル和であるように人間も周囲にいる人の考えや行動に影響されていると理解することは、十分ありえると思いませんか?
ということはですよ、ある人の行動を考えるときにはその背後に潜む力学関係を洗い出す必要があるのです。その行動をさせている外力は何か?という観点です。
その行動をさせているのは、学校の指導かもしれないし、親の影響かもしれないし、友人の影響かもしれません。
ここで重要なのはこのオレンジ色の矢印は直接的には触れられないということです!
無理矢理行動させようとしても、普通はできません。
勉強しなさい、部屋の整理をしなさい、電気を消しなさい・・・
こういう「〇〇しなさい」系は往々にしてほとんど効果がありません。本人の考え方に作用しないからです。効果を得るには考え方に作用する必要があるのです。
「車を運転するときは制限速度を守りなさい」というより、60km/hで正面衝突する車の事故の映像を見せるほうが、運転に気をつけようという気持ちになりますよね。
もちろん実際は作用することが少しは可能です。管理教育とはこういうものです。つまり、生徒に無理矢理課題を与えたり、補習を強制参加にしたり、赤点のものには追試を課したり・・・というのは全てオレンジ色に無理矢理作用するのと同じです。
本来は外力を与えるべきなのです。それは勉強の楽しさや、大学進学が人生にもたらす意味を伝えたり、もしくはそれによって人生の可能性を広げた人と会話をすることなど、外力の与え方は様々です。
来年小学生の甥っ子がいるのですが、私が本を読んでいると彼も絵本を読もうとしたことがありました。その時は「ああ真似してるな」としか思いませんでしたが、こう考えると私が外力を与えたと言えそうです。また、かつてひらがなを教えようとした時にはまったく興味が無いようでほとんど教えられなかったのですが、私が塾で勉強を教えていることを知ってそれが面白いと思ったのか、今は自分からひらがなの勉強をしているようです。
「〇〇しろ」と言われる前に外力の結果勝手に動き出す性質が人間にはある。重力に逆らえないように、周囲の影響に逆らえない行動をするのです。