月刊木村:清須市で営む塾での日々

相伝学舎という塾を経営しています。好奇心の格差時代に、大学受験を通じた成功体験の場を提供することが使命です。

命の価値は余命に比例すべき

日本にはかつて優生保護法というものがありました。知的障害者や身体障害者にたいして不妊治療をして、健康でないものが生まれることを防ごうとしたものです。

受験的にはよく現代文などで近代化における中心化、すなわち人間の状態は病気がない健康な状態が良いものであるとして、そうではない状態を排除すべき状態と考えることの一例で取り上げられます。

もちろん現代文における近代化といえば反省すべき批判対象というのが私が受験生だった20年前からの定説です。優生保護法も同様に、批判対象ということになります。

その結果いまの日本ではどの人の命も尊重すべきというフラットな考えが一般的です。それは生まれたての赤ちゃんであっても、もう死にそうな老人についても尊い命にあることには変わりないということです。

これは人間の命が独立した存在であればその通りだと私も思います。数学でいえば、

の最小値は?という問題にたいして、x=0, y=0で最小値0、と答えを出すようなものです。

でも実際には今の日本では人間の命は独立していません。つまりxとyの間に関係があります。数学でいえば、

のようにxとyに関係式がある状態です。この場合、y=1-xとして

こんな計算になって、x=1/2 , y=1/2で最小値が1/2になります。

ここで再び、人間の命に話題を戻します。

今の日本では生まれたての赤ちゃんの命と、死にそうな老人の命は独立した存在ではなく一定の関係があります。つまり少子高齢化の社会において生まれたての赤ちゃんは成人したあと数十年間ものあいだ高額の社会保険税を負担しつづける運命にあり、死にそうな老人は高度に発達した医療と社会保険の仕組みによって自分の懐をいためることなくのこり5年の命を1年延長することなどが可能な立場にあります。

この状態で、「どの命も等しく尊い」と言えるでしょうか?

私は人間の命の価値はは余命に比例すると考えます。

生まれたての赤ちゃんの命のほうが死が近い老人の命よりも尊重されるべきです。今の社会ではこれくらい偏った考えをとらないとバランスがとれません。

よく少子高齢化を表す図で、一人の老人を若者が4-5人でみこしのように担ぐものがあるじゃないですか。

今の世の中はあんな甘い図ではなくて、江戸時代の拷問のようにもっと痛みを伴うものです。

(wikipediaより。「石抱き」というらしい)

この痛みとは何かといえばもちろん税金です。だいたい私たちの税金の3割は社会保険という名目で高齢者に吸い取られています。社会保険ってたとえば医療費とか年金をみんなで負担しようというものですよね。「保険」といえば払えば払うほどいざというときに助かるイメージがありますが、年間に何百万円も社会保険を払う若い人は年に1回風邪を引くかどうかくらいで病院にかかることなんてめったにないし、年金はもちろんもらえません。ひたすら払いっぱなしです。自分はめったに乗らないカローラに乗っているのに、なぜか他人のフェラーリの保険を払っているようなもんです。

若い人が過剰に負担するということは、すでに今の日本では若い人の命よりも老人の命のほうが優先されているということです。

そういう仕組みのなかで私たちは生きているので、小中学校では「命は平等」なんて綺麗事を勉強するものですが実際には「余命のながい若い人ほど命が尊い」くらいの意見をみんなが持ち始めないと、みなさんそのうち全身の血を吸い取られて死んじゃいますよ。

 

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